時刻は22時50分

観劇とかの感想を緩く的外れに。

爆走おとな小学生「パニッシュメントクレイン」 雑感

 ※この記事は五月十六日、十七日に配信の爆走!おとな小学生の「パニッシュメントクレイン」のネタバレが含まれています。
 
 四月後半から五月半ば、色んな支援プロジェクトがそろそろと立ち上がるのを眺めながらどうすればわたしの好きな事を納得する形で応援を出来るのかと考え続ける日を送っています。あんまり考えすぎるのも身体に毒ですんで、上手いこといきたいものです。
 さて、四月、五月、六月の観劇予定が全て潰れてしまって(と同時に予定がなにもなくなってしまって)、おうち時間とか言いながらDVD流したり、某ゲームで島作ったりして過ごしてた所に、今回の通信授業です。
 そういえば数日前にタツノオトシゴの物販が届きました。いや本当に観たかった。私、観劇したい。正確には夜行バス乗って観劇して夜に酒飲みながら友達とわいのわいのしたい。
 
 今回の配信は無観客、演者と演者の距離を保つ、一時間の公演時間のうちに演出として数回の除菌スプレーの使用、小道具の受け渡し方法の徹底と事前にアナウンスがありまして。演劇という行為自体が今で言う三密やソーシャルディスタンスの維持が難しく、そんな中でどういった形で配信や公演を行っていくのかっていう所はかなり気になりながら観ていました。
 あのアナウンスのようなこれだけの対策をして公演または配信に臨みますという社会へのアナウンスは大規模であれ小規模であれ、対策方法はそれぞれだとは思いますが暫くは必要になっていくのじゃないかなぁ…。
 
 パニッシュメントクレイン、punishment=処罰、刑罰 Crane=鶴
 主人公の美沙紀の語りから始まる形のミステリーですね。美沙紀の夫が青酸カリで突然死、警察は自殺と断定、葬儀の日に加藤と名乗る男が現れ…というお話のさわりとしてはかなり典型的な部類ですね。美沙紀と加藤の会話を中心に美沙紀が知らなかった夫の一面、人間関係、そして夫を殺した真犯人に迫っていくんですが、やはり上記の縛りとも言える演出で殆ど会話劇と言ってもいいでしょう。

公演時間は一時間なのでかなりスピード感があった印象です。初日初回、初の無観客配信という事で演者さんからかなりの緊張が伝わっていたのと、話の展開スピードから一種異様な緊張感を感じたりとこちらも油断したら無事では済まないような気分で観ていました。
 主人公の正体が加藤の会話に出てきた白鳥であると判明する場面で、美沙紀と白鳥という存在が記憶を辿るという行為の中で重なり合うという一種の高揚感を感じられる所をもう少し丁寧に描いてくれれば、とか最後の怒濤の種明かし的な展開で気持ち的に少し置いてけぼりにされた(良い言い方をすればどんでん返しの連続であった)と同時に割と途中から展開が読めてしまったが故に登場人物に感情移入がしづらくなってしまったのは少し残念な所ではあるかもしれないなぁという気持ちです。アゲハちゃんの犯行の動機が弱すぎるっていうのもあるのかも。引っかかった所は多々あってそこらへんちょっと見逃しているかもしれないので大千秋楽に観ます。
 ただ一時間という短い公演の中で繰り広げられる序盤の加藤さん脚本の特色ともいえるシュール味溢れるどたばた感が、じわじわと違和感に変わりあのひりついた緊張感を伴ってラストに向かって崩壊していく作風は今の状況が閉塞感強くてやってらんねえな感のある人には良い意味での刺激になるかもしれません。全員どうしようもない人間がどうしようもないきっかけと理由とやり方で負の連鎖起こしてます。加藤さん脚本の最早お約束となった時事ネタも盛り込んでて苦笑いするところも有り。

折り鶴千回折ったら千羽鶴だから千匹目に結婚しようはある意味凄い殺し文句ではと思いました。ロマンチックと狂気が混在してるの凄いし怖くないですか?わたしはこわい。山田さん、嫌な奴とかどう考えてもおかしいのにしれっと通常ですよみたいな顔でいる役が似合うのは最早才能だと思います。だんだん癖になってくるのも怖い(褒め言葉)。多分人は狂気的なプロポーズをされると判断能力が狂うんだと思う。

あとおと小さんの女性陣はどうしてこう瞳孔かっぴろげてる姿が様になるのだろうか。


 
 ここから先作品の話じゃないですけど、これ書いててふと浮かんだ事がありまして。
 創作上の登場人物にどうしようもないなぁって笑うのは癒やし効果があるのかなぁと。登場人物の言動を間違っていると断じて笑い、いや本当はどうしようもないのではと考え、ある時には自省する。そうすることで自分の中のモヤモヤしてる怒りや悲しさを幾分かは軽く出来るのでは、と。
 架空の人物に対しては、現実にいる人に対してよりは冷静になれる。創作上の存在が馬鹿をやってもある程度は笑って馬鹿だなぁと言ったり、あいつは酷い奴だけどといった事も言える。それは物語とわたし達読み手や観客の間に第四の壁があるという前提があるから。現実で、目の前で、最悪伝聞だけでも〝馬鹿なこと〟や〝酷いこと〟を見聞きすると苛々するし腹も立つし、ともすればちょっと過激な事を考えてしまう。わたし達には心があるから。ただ社会的に言えない時もある。言ってしまうと自分が〝馬鹿な人〟になったり〝酷い人〟になってしまうのではとブレーキがかかる。(勿論、〝言う事は馬鹿なことではない〟とブレーキをかけない人もいる/そこに関しては個人の価値観と、発言の自由と責任のお話になりますので割愛)
 ただブレーキをかけたところで、心の中に溜まった苛々や淀みが消えるわけではなくて、そういったものが溜まっていくとしんどくなったりするじゃないですか。底に溜まっていた黒いものがある時ふっと浮かんで舌打ちをしたくなる時とかあるじゃないですか。そういうのを軽くしたり出来る行為の一つが創作に触れる事だよなぁ、なんて考えてます。架空の事象や人物と現実の出来事がほんの少しリンクして何かを感じる。それで苛々とか怒りとか、悲しさとかが消化されれば儲けものだなぁと。久しぶりに配信というスタイルながらも現在進行形のお芝居を観てふと浮かんだ雑感でした。なんか新鮮な気づきではあります。
 いつにも増してとっちらかってるなぁ…申し訳。
 
 
 いやでもやっぱ演劇、生で観たいよね!!!!!!!!というのも正直な気持ちです。わたし達がいた世界は、贅沢な世界だったのだろうなぁ。